表現の自由→倫理 | ひびのあしあと

表現の自由→倫理

表現の自由についてまだまだ考えている。

一つ目のツイートはリツイートさせていただいているんだけど、まあリプライにも勘違いしたのがいくらか散見されるね。
ざっくり調べ直したんだけど、憲法は「国民が決め国が守るもの」、法律は「国が定め国民が守るもの」。
国民はだれのことかわかるよね。じゃあ国ってだれかって話なんだけど、権力者、公務員。政治家はその代表だよね。
表現の自由は憲法で保障されているんだから守れ! というのを、一国民に言うのはおかしいのよね。

表現の自由についてtwitterをリサーチしてると、未だに「ラブライブ!」のみかんのポスターや、これまでわたしは触れていなかったけれど、年末にあった赤十字の献血ポスターの話を引きずって、「フェミニストがこれらを撤去させた」なんて言っている人たちが多い。そのなかに議員が含まれているから頭を抱える。
本人たちは論理的に話し、冷静に訴えているつもりなのかも知れない。でもわたしの目には滑稽に映る。
表現の自由を訴える場面はほかにもあったんだよ。厚生労働省の「人生会議」のポスターは一日で撤去されているし、映画「バイバイ、ヴァンプ!」も批判を浴びた。「サラッサラのツヤッツヤになりたい」のポスターも対応が早かった、助成金の取り消しがなされた映画「宮本から君へ」なんて、まさに国が表現に口を出しているじゃないか。なぜ議員たちはそれらに触れず、いつまでも「ラブライブ!」と「宇崎ちゃん」なのか。
もうちょっというと、「ぼくのヒーローアカデミア」の騒動も絡めてたりはする。悪役の名前が、かつての悪意ある隠語だったというアレだ。
とにかくその三点ばかり。なぜなのか。

だいたい察しはつく。
○コンテンツが漫画・アニメ・ゲームであること
○批判者がフェミニスト、あるいは外国人であること
これだろう。

いちおう断っておくと、彼ら(表現の自由を守れと声高に叫ぶ人たち)がフェミニストと呼んでいる人たちは、必ずしもフェミニストではない。なぜなら彼らの基準はとっても雑で、「自分の好きなコンテンツにケチをつける女性はフェミニスト」なのだ。実際に批判をした人がフェミニストかどうかは、はて、定かではない。
批判するやつ=フェミニスト、としておくのは楽だよね。

フィクションとノンフィクションの区別がつかないんですか、なんてあおりをよく目にする。フェミニストとそうでない人の区別もつかない人に言われてもね~その批判が表現に対するものかコンテンツへのものなのかの区別もつかない人に言われてもね~ってところ。
多くの場合、フェミニストはコンテンツを批判していない。表現方法がポスターにそぐわないと言っているだけだ。なにも難しくはない。

まあとにかくだね、日本国内において嫌われやすい属性の人たちが自分の好きなコンテンツを批判している。批判者を敵認定し、騎士のように振る舞えば、そりゃあ称賛されるでしょうよ。
滑稽だよね。
でも国民の総意だと思わないでくれ。表現者の総意だと思わないでくれ。よくない表現は批判され、改善されていくべきだ。すくなくともわたしはそうしてほしい。下手に擁護されたくない。ましてや批判した人を怒らないでほしい。
確固たる信念を持って、覚悟を持って書いたなら貫くよ。そうじゃないなら恥ずかしいよ。ズボンのチャック開けっぱなしなのを指摘してもらったのに「失礼だ!」なんて言わないでしょ。

批評を受けて作品をどうするか、それも表現者の自由じゃないだろうか。表現者が修正すると決めた、撤去すると決めたとき、表現の自由を守ると言う人たちがその選択を批判するのはなぜだろう。

さて、表現の自由を保障しているのは憲法だから、国民は他人の自由を守らなくてよいかといえば、もちろんそんなことはない。基本的にはやはり自由でなくてはいけない。
ただ、出版でも放送でも広告でも、協会があり倫理がある。そもそも社会そのものに規範、倫理がある。その倫理にもとる内容であれば批判を受けるのは当然だ。じゃあ、倫理ってなんだろうか。
すこし倫理をかじろうと思う。じっくり学んでいる余裕はないかもしれないので、かじる。

こうしてまた資料が増えるのであった。

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