お金のことと、働くということ | ひびのあしあと

お金のことと、働くということ

最近、お金についてよく考える。
なにを隠そうお金が大好きである。創作を趣味として楽しみつつ、これがお金になったらなあなんて考えてもいる。簡単なことではないが、叶えば創作活動も多少は楽になる。
しかし、それ以上にお金が欲しい。原因はわかっている。お金がないと生活から自由がなくなるからだ。
幸い食いっぱぐれることなくここまでこれた。実際のところ一時的にはめちゃくちゃ困ったことはあったが、なんとかなった。学歴もない、資格もないまま生きてきたから、就ける職も限られた。それでも食いつなげてきたのだから、ほんとうに幸運だったとしか言いようがない。
勉強を怠けた過去を悔いることは何度かあった。進学しなかったのも、資格を取らなかったのも自分の選択だ。学歴も資格もあれば就職に有利に働くが、高校卒業当時、わたしはそれをまったく考慮していなかった。幼く、おろかだった。
そんな怠け者でも、二十年も外で働いていれば自然と学ぶものである。学歴や資格がすべてではないし、生まれ持った能力の違いもある、学歴や資格がなくても生活に事欠かないくらいの給与をもらえる仕事には就けるべきだ。逆に必要もないのに大卒を選んで採用し、その割に給与が低い企業もある。それはそれで問題だ。
いくつかの職を経験したが、まったく違う職種でも活かせるものはある。どこにだって変わった人はいるし、だれだっていい人になったり悪い人になったりする。感じることのすべてはわたしの都合、わたしの主観である。
お金は裏切らない。いい人にも悪い人にもならないし、初心者にも経験者にも同一の存在だ。ただし変わり者ではある。
この一年半。新型コロナ禍で、株価は急激に下がり、急激に上がった。金持ちたちは一喜一憂し、今は衆議院選挙をじっと見守っているだろう。けれど、ほとんどの庶民には関係のない話だ。
株に縁のない庶民は、いつ新型コロナが落ち着くのか、自分や家族は感染しないだろうか、緊急事態宣言はいつからいつまでなのか、今月の給料はいかほどか、ボーナスは出るのか――などと、ハラハラしながら働いていた。あるいは働くこともできず、就職先を探していたかもしれない。お金がなく、生活が困難になり、食糧支援などには以前よりも長い列ができたと聞く。
一方、オリンピック・パラリンピックでは、無観客試合となったために、ボランティア用に用意された弁当が大量に廃棄された。
おかしくない?
「働かざる者食うべからず」という言葉を考える。いつから言われる言葉なのか知らないが、食べ物がない時代であれば、それは仕方のないことだったのかもしれない。でも、じゃあ、働くってなんだろうか?
「働く=金を稼ぐ」になっていないか。自民党は財政健全化を改憲案に盛り込んでいる。なにかというと民営化、経費削減という。現在の消費税は10%で、このまま自民党政権が続けばインボイス制度の開始も待ち構えている。とにかく税金をむしり取り、それでいて出費は抑えたい、金のかかる事業はしたくないという姿勢が見えてくる。
公共事業が金儲けに走ること自体間違いなのだが、それにしても金・金・金だ。金にならないことは無駄とでも言いたげで、実際、世の中がそのように傾いているような気がしている。
しかし、お金にならない「働き」は、お金になるそれよりずいぶん多い。
わたしはひとり暮らしで、外で働きつつ、家のことも当然自分でこなさなければならない。そして外で働いたことには給与が支払われるが、家事にはない。むしろ、料理にせよ掃除にせよ洗濯にせよ、材料費も経費も払っている。人件費はタダということにされている。当たり前だ。わたしが受けるサービスをわたしが提供したにすぎないのだから。
しかし、お金になってもならなくても、「働き」には変わりないはずだ。

「働く=金を稼ぐ」と「働かざる者食うべからず」は一見まっとうなようで、非常に危うい思想だ。これが合わさるとなおまずい。金を稼ぐことが正義となり、倫理観が置き去りになる。
そもそも「金持ち=よく働いた者」でもない。生まれながら、たまたま資産があった人もいるだろう。働かなくとも暮らせる人だって世の中には存在するのだ。そういう人たちを羨ましいとは思うが、憎いとか、いてはならないと思ったりはしない。
しかし、しかし。だからこそ、金がすべての世の中にしてはならないのだ。財産の有無は、個人の優劣を表さない。

とはいえ、すでに金がすべての世の中だ。だから必要以上に欲しいと思ってしまっている。そんな自分を醜いとも、そう思って当然だとも考えている。

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