表現と自由と責任の話 | ひとりあるき

表現と自由と責任の話

こんばんは! あなたのトリコ、あなたもトリコ、白鳥です。
また‥‥またずいぶん間が空いてしまいました。twitterが便利すぎてほとんどtwitterで呟いてしまうからよくない。

近況。まず、介護福祉士実務者研修の取得のため通学していましたが、先日全課程を修了しました。お疲れ!
他方、いつも通り本を読んだりネットを漂ったり。あとデジタルですけれども新聞の購読が増えました。そんでまあ‥‥毎日いろんなことにため息をついたり怒ったりしています。
たまには嬉しいニュースがほしいな。あ、沖縄県知事選、玉城デニー氏が再選されたのは嬉しいニュースでしたね! 選挙期間中、他国に対する差別心・敵対心を煽るようなデマによって攻撃されていたので、この結果にはとても安堵したのでした。

さて、今日のテーマは「差別心・敵対心」です。

表現の自由は憲法で保障された人権の一つです。で、わたしの大嫌いな、いわゆる「表現の自由戦士」たち。最近はまた言い分に変化がありまして、「表現の自由には責任が伴う」というものをよく見るようになりました。これは否定しません。

ただですね、わたしの思う「表現」「自由」「責任」とは、それぞれ乖離がありまして。

最近話題になったものに、映画「力の指輪」のエルフ、ディズニーの実写映画「ピノキオ」のブルーフェアリー、同じくディズニーの実写映画「リトル・マーメイド」の主人公アリエル。この三者を黒人俳優さんが演じていることに対し、「イメージと違う」といった批判が寄せられました。
その「イメージが違う」という批判にも階層があって、「わたしのイメージとは違った」というあくまで個人的な感想から「原作のイメージを壊すな」という攻撃的なものまであるのですが、気になるのが、「クリエイターはほんとうにこれがいいと思っているのか」というもの。

なんでそこに疑問を持つんだろう、というのがわたしの疑問。

いや、わかるんですよ、言いたいことは。こんなものおもしろくない、押しつけられた”ポリコレ”のために作品を犠牲にして原作を台無しにせざるを得ないんだ、いわば”ポリコレ”の犠牲者なんだ、とでも言いたいのでしょう。
ポリティカルコレクトネスへの敵対心を煽る、非常にいやらしいtweetですし、だいいちクリエイターへのこれ以上の侮辱はないでしょうね。

批判の理由を、原作へのリスペクトがないから、とするtweetも多く見られました。わたしはこれにも疑問です。リスペクトの多寡を、いったいどのように比べたのでしょうか。なぜ先の三作に、原作へのリスペクトがないと考えるのでしょう。

これらの非常に差別的な中傷を繰り返しているのが、いわゆる表現の自由戦士たちに多いわけです。もうね、表現の自由はどうした、って思うわけですよ。ひとまずそれは横に置くけれども。
いいですか? 横に置きます。
なぜなら、ここに憲法で保障された人権の一つである「表現の自由」は関係ないからです。

表現に対し、批評・批判をする。どちらの行為も自由です。そして責任が伴います。
その責任の範囲、どこからどこまででしょうか。

引用元含めたこの二つのtweetに、わたしは感銘を受けました。

表現の責任とは、わたしは、どのような影響を与えるかだと考えています。だから表現者は、与えうる影響を熟慮すべきなんです。

見た人がどう思うか、どう考えるようになるか。

つまり、エルフといえば白人だったわけです。お姫さまといえばほとんどが白人だったわけです。それってね、「エルフは・お姫さまは白人であるべき」という偏見を植え付けていたわけですね。
果たしてそれは良い影響でしょうか。
自分の作品によって差別を生み敵対心を煽るようなこと、まともなクリエイターなら望みません。

黒人俳優さんが演じたことで、子どもたちは「ああ、だれがエルフになっても・お姫さまになってもいいんだ」と感じるでしょう。同じ属性の子どもたちにはより強力にエンパワーメントする。
それ、すごくワクワクしませんか? 差別心は薄れ、いずれ消えていく。自信を得て強くなった子どもたちは、わざわざだれかと敵対することもないでしょう。
作品が子どもたちの心を自由にし、いずれその子どもたちが世界を変える‥‥なんて、うっかり期待しちゃいます。

作品を作るとき、クリエイターは「表現の自由」なんて考えていません。自分はなにを表現したいのか。その表現が、だれに、どこまで、どんなふうに響いていくか。うっかりねじ曲がったりはしないか。
そういったことに、ひたすら腐心しているのです。

わたしも世界を変える作品を書くぞ。

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